全校朝会 防災学習
今日は、放送で全校朝会を行いました。校長先生の講話で、防災学習をしました。
今週の土曜日は、3月11日です。東日本大震災から6年が経ちました。
この大震災は、大地の揺れだけではなく、大きな津波をもたらし、多くの命が奪われました。また、原子力発電所の事故も起きて、大切な家族や友達と離れ離れになったり、思い出の詰まった家や学校を無くしたり、これまでのような生活ができなくなったりした人もたくさんいます。
地震は、いつくるか分からないから、先生や家族の人がそばにいないからかもしれません。大きな地震が来たときに、皆さんの家族の方が何日も家に帰ってこられなくなるかもしれません。そんなときのために、どんなことが大切だと思いますか。そのヒントになることが書かれている作文を紹介します。
これは、東日本大震災で被害が大きかった宮城県の「ゆりあげ」という町の女子中学生が書いた作文です。
「私のふるさと」
「何もなくなってしまったなあ。」
「ここには公園や幼稚園があったんだなあ。」
浜風が心地よく吹き、時間がゆっくりおと流れてゆくとても穏やかな街、それが私のふるさと閖上でした。
学校の帰り道では、近所の方がよく声を掛けてくださり、安心して下校することができました。母が弟を出産し、退院後家事ができなかった時にも、おかずを届けてくれたり、買い物をしてくれたりと、困った時はお互いさまと言って閖上の街の人たちは、大きな家族のようでした。
そんなふるさとも、あの大津波ですっかり姿を変えました。
あの日避難した小学校の屋上から見おろす街は、あたり一面真っ黒な水に浸り、車や家が流れクラクションを鳴らし助けを求めている人や家の屋根にしがみついている人がたくさんいました。それはとても恐ろしい光景でした。
家族のように暮らししていた街の人たちとも、離れ離れになり、私たちは避難先を転々としました。
私の親は、もっと海から離れた場所に新しく閖上の町が作られないかと考えています。
私も同じ場所に戻って暮らすことには、とても不安を感じます。あの恐怖がよみがえり、とても戻る気持ちにはなりますん。だからと言って、まったく別の場所に暮らしていくというのにも不安を感じます。
母は今、「閖上復興だより」という地域の新聞を発行しています。震災でばらばらになってしまった住民が、再び一つの街の住人として暮らす日まで、つながりをもち続けられることを目的としています。みんなその新聞を毎日心待ちにしているようです。
私は、この震災を経験して感じたことがあります。それは、帰りたいふるさとは場所だけにあるものではなく、人と人とのつながりの中にあるのではないかということです。閖上があの場を離れることは確かにつらいことですが、閖上の人たちと離れなければならないことは、もっともっとつらいことです。
ふるさとは、私たちの心の中で今でも健在です。これからも、人と人とのつながりを大切にし、ふるさとを守っていく取組を継続していきたいと思います。
どうでしたか。ふるさとの人たちとの心のつながりがどんなに大切かということがよく分かりますね。
みなさんのふるさとは白山台です。白山台に住んでいる近所の人ときちんとつながりをつくるためには、まず、普段からしっかりと挨拶をすることです。
学校が避難所になった時には、学校にたくさんの地域の人が集まってきます。皆さんも、学校に泊まらなければならないかもしれません。そんなときに、普段から近所の人とあいさつをしていると、スムーズにいろいろなお話ができますね。
自分の命を守るのは自分ですが、周りの人と助けあうことが必要なこともたくさんあります。ふるさと白山台の一員としての生活を、普段から心がけておきましょう。
さて、このような震災で学校の給食が作れなくなったときのために、八戸市では非常用のカレーを準備して下さっています。金曜日は、そのカレーを食べる練習もあります。
また、それぞれの学級や学年で避難の仕方についての確認もあると思います。訓練ではありますが、真剣に、しっかりと行いましょう。
今週の土曜日は、3月11日です。東日本大震災から6年が経ちました。
この大震災は、大地の揺れだけではなく、大きな津波をもたらし、多くの命が奪われました。また、原子力発電所の事故も起きて、大切な家族や友達と離れ離れになったり、思い出の詰まった家や学校を無くしたり、これまでのような生活ができなくなったりした人もたくさんいます。
地震は、いつくるか分からないから、先生や家族の人がそばにいないからかもしれません。大きな地震が来たときに、皆さんの家族の方が何日も家に帰ってこられなくなるかもしれません。そんなときのために、どんなことが大切だと思いますか。そのヒントになることが書かれている作文を紹介します。
これは、東日本大震災で被害が大きかった宮城県の「ゆりあげ」という町の女子中学生が書いた作文です。
「私のふるさと」
「何もなくなってしまったなあ。」
「ここには公園や幼稚園があったんだなあ。」
浜風が心地よく吹き、時間がゆっくりおと流れてゆくとても穏やかな街、それが私のふるさと閖上でした。
学校の帰り道では、近所の方がよく声を掛けてくださり、安心して下校することができました。母が弟を出産し、退院後家事ができなかった時にも、おかずを届けてくれたり、買い物をしてくれたりと、困った時はお互いさまと言って閖上の街の人たちは、大きな家族のようでした。
そんなふるさとも、あの大津波ですっかり姿を変えました。
あの日避難した小学校の屋上から見おろす街は、あたり一面真っ黒な水に浸り、車や家が流れクラクションを鳴らし助けを求めている人や家の屋根にしがみついている人がたくさんいました。それはとても恐ろしい光景でした。
家族のように暮らししていた街の人たちとも、離れ離れになり、私たちは避難先を転々としました。
私の親は、もっと海から離れた場所に新しく閖上の町が作られないかと考えています。
私も同じ場所に戻って暮らすことには、とても不安を感じます。あの恐怖がよみがえり、とても戻る気持ちにはなりますん。だからと言って、まったく別の場所に暮らしていくというのにも不安を感じます。
母は今、「閖上復興だより」という地域の新聞を発行しています。震災でばらばらになってしまった住民が、再び一つの街の住人として暮らす日まで、つながりをもち続けられることを目的としています。みんなその新聞を毎日心待ちにしているようです。
私は、この震災を経験して感じたことがあります。それは、帰りたいふるさとは場所だけにあるものではなく、人と人とのつながりの中にあるのではないかということです。閖上があの場を離れることは確かにつらいことですが、閖上の人たちと離れなければならないことは、もっともっとつらいことです。
ふるさとは、私たちの心の中で今でも健在です。これからも、人と人とのつながりを大切にし、ふるさとを守っていく取組を継続していきたいと思います。
どうでしたか。ふるさとの人たちとの心のつながりがどんなに大切かということがよく分かりますね。
みなさんのふるさとは白山台です。白山台に住んでいる近所の人ときちんとつながりをつくるためには、まず、普段からしっかりと挨拶をすることです。
学校が避難所になった時には、学校にたくさんの地域の人が集まってきます。皆さんも、学校に泊まらなければならないかもしれません。そんなときに、普段から近所の人とあいさつをしていると、スムーズにいろいろなお話ができますね。
自分の命を守るのは自分ですが、周りの人と助けあうことが必要なこともたくさんあります。ふるさと白山台の一員としての生活を、普段から心がけておきましょう。
さて、このような震災で学校の給食が作れなくなったときのために、八戸市では非常用のカレーを準備して下さっています。金曜日は、そのカレーを食べる練習もあります。
また、それぞれの学級や学年で避難の仕方についての確認もあると思います。訓練ではありますが、真剣に、しっかりと行いましょう。