学校生活
みんなで守る
年度初めとあって、登校指導の期間です。
PTAの交通安全母の会がおそろいの緑の上着を着て、小さな子どもも連れて、
寒い中子ども達の安全のために付き添ってくださっています。
辻々に立っては道路横断の安全を確保してくれています。
学校の前にも。
校舎に入ると計画委員会の皆さんが立ち、「あいさつ運動」をしています。
元気な島小っ子のあいさつが朝から校舎に響き渡ります。
*
写真には写っていませんが、
この他駐在所のおまわりさんが立哨してくださったり、
防犯協会のいわゆる「青パト」も見回ってくださいました。
「みんなで子ども達を守る」島守らしい光景です。
たくさんの人々に守られて今日も子ども達は学校へ向かいます。
PTAの交通安全母の会がおそろいの緑の上着を着て、小さな子どもも連れて、
寒い中子ども達の安全のために付き添ってくださっています。
辻々に立っては道路横断の安全を確保してくれています。
学校の前にも。
校舎に入ると計画委員会の皆さんが立ち、「あいさつ運動」をしています。
元気な島小っ子のあいさつが朝から校舎に響き渡ります。
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写真には写っていませんが、
この他駐在所のおまわりさんが立哨してくださったり、
防犯協会のいわゆる「青パト」も見回ってくださいました。
「みんなで子ども達を守る」島守らしい光景です。
たくさんの人々に守られて今日も子ども達は学校へ向かいます。
集団登校初日・特別支援アシスト紹介
10年目の3.11 校長講話
東日本大震災から10年が経ちました。
小学校では震災以降に生まれた子の方が多くなっています。
ここから先の子ども達には実体験はなく、伝承をいかにしていくかが大切になると言えます。
今回の臨時校長講話は、「奇跡の一本松」絵・文なかだえり の読み聞かせでした。
いつもは落ち着きのない子もこのときはしっかりと集中して聞いていました。
先日新聞には、今後90%以上の確率で起きると予想されている東日本大震災の震源域以北、つまり八戸沖を含む日本海溝北部で起きる地震による津波の想定は、八戸で26m以上と出ていました。島守は山にある地域ですが、八戸の海沿いにあるショッピングセンターに出かけることもあると思います。どこにいても生き抜く術をしっかり伝えていくことが大切なのだと思います。合掌
小学校では震災以降に生まれた子の方が多くなっています。
ここから先の子ども達には実体験はなく、伝承をいかにしていくかが大切になると言えます。
今回の臨時校長講話は、「奇跡の一本松」絵・文なかだえり の読み聞かせでした。
いつもは落ち着きのない子もこのときはしっかりと集中して聞いていました。
先日新聞には、今後90%以上の確率で起きると予想されている東日本大震災の震源域以北、つまり八戸沖を含む日本海溝北部で起きる地震による津波の想定は、八戸で26m以上と出ていました。島守は山にある地域ですが、八戸の海沿いにあるショッピングセンターに出かけることもあると思います。どこにいても生き抜く術をしっかり伝えていくことが大切なのだと思います。合掌
75年前の戦争
島守は歴史にあふれるところです。
古くは縄文時代。しまもり中遺跡だらけと言っていいぐらいあります。
そして中世の水田跡、平安時代末期に活躍した平清盛の息子重盛の落人伝説、
島守(四戸)安芸が与した九戸の乱に連なる戦い…そしてそれは先の大戦についても…。
*
2月26日(金)に6年生4人で南郷歴史民俗資料館に見学に行ってきました。
戦時中の戦争一色の生活を学芸員の中尻さんから具体的なホンモノの資料を見せて頂いて教えていただきました。
八戸の空襲で海防艦「稲木」の奮戦により市街地が空襲から免れたことも教えてくださいました。
なんとなく教科書を読んでいると「嫌々戦争したんだろうな」と想像していた子ども達に、
街やふるさと、家族を守るために文字通り必死に戦う当時の兵隊さん達の気持ちが少し伝わったようでした。
*
最後は、「なんでもっと早く戦争を終わらせなかったんだろう?」という謎を解く鍵
「八戸要塞」について模型や写真、前の館長古里さんの書いた資料を基に教えて頂きました。
島守から八戸方面に行く道の一つに鷹巣展望台からの山道があります。
その山の斜面や新井田川沿いの道を狙える斜面に100基以上も厚いコンクリート製の「トーチカ」が作られました。
作成には県内の学生や地元島守の小学生もかりだされ、冬の寒い時期に半年近くも山に砂利などを運んだようです。
これは「捷三号の甲作戦」という、米軍上陸後の本土決戦用の作戦のために作られた物なのでした。
つまり、当時の政治を動かしていた人たちは沖縄戦のような陸戦をここ島守でやろうとしていたのです。
降伏するどころか、「一億総玉砕」という言葉が叫ばれていたことも中尻さんに教えていただきました。
*
もう少し降伏が遅かったら…もしかしたら島守が戦火の舞台になっていたかもしれないということを想像して周囲の風景を眺めながら歩いて学校に帰ってきました。
古くは縄文時代。しまもり中遺跡だらけと言っていいぐらいあります。
そして中世の水田跡、平安時代末期に活躍した平清盛の息子重盛の落人伝説、
島守(四戸)安芸が与した九戸の乱に連なる戦い…そしてそれは先の大戦についても…。
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2月26日(金)に6年生4人で南郷歴史民俗資料館に見学に行ってきました。
戦時中の戦争一色の生活を学芸員の中尻さんから具体的なホンモノの資料を見せて頂いて教えていただきました。
八戸の空襲で海防艦「稲木」の奮戦により市街地が空襲から免れたことも教えてくださいました。
なんとなく教科書を読んでいると「嫌々戦争したんだろうな」と想像していた子ども達に、
街やふるさと、家族を守るために文字通り必死に戦う当時の兵隊さん達の気持ちが少し伝わったようでした。
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最後は、「なんでもっと早く戦争を終わらせなかったんだろう?」という謎を解く鍵
「八戸要塞」について模型や写真、前の館長古里さんの書いた資料を基に教えて頂きました。
島守から八戸方面に行く道の一つに鷹巣展望台からの山道があります。
その山の斜面や新井田川沿いの道を狙える斜面に100基以上も厚いコンクリート製の「トーチカ」が作られました。
作成には県内の学生や地元島守の小学生もかりだされ、冬の寒い時期に半年近くも山に砂利などを運んだようです。
これは「捷三号の甲作戦」という、米軍上陸後の本土決戦用の作戦のために作られた物なのでした。
つまり、当時の政治を動かしていた人たちは沖縄戦のような陸戦をここ島守でやろうとしていたのです。
降伏するどころか、「一億総玉砕」という言葉が叫ばれていたことも中尻さんに教えていただきました。
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もう少し降伏が遅かったら…もしかしたら島守が戦火の舞台になっていたかもしれないということを想像して周囲の風景を眺めながら歩いて学校に帰ってきました。